音夢は両目から溢れてくる涙を止めることが出来なかった。
無事に生きていてくれた。
それがどれだけ嬉しいことか今まで知らなかった。
確かにみっともなかった。
でも兄は生き延びてくれたのだ、今はそれでいい。
今日は何があっても許してあげよう。
音夢は心からそう思った。
気がつくと隣にいた美春も眞子もことりも泣いていた。
三人も純一のことが心配だったのだ。
正直少しだけ妬けた。
自分の親友達であるこの三人は掛け値なしに美人だ。
純一はどこまで彼女達の好意に気がついているのだろうか?
多分、且つ絶対に気づいていない。
他の神器達にも言えることだが、彼らの恋愛に関する鈍さはとんでもないのだから。
それはかつて悲しい恋をした所為か……それともただの天然か……。
どちらかといえばおそらく後者だろう。
むしろ間違いなく後者だ。
そう断じたい。
……そうでなければあまりに少女達には荷が重過ぎる。
少年は憎しみに心を塗りたくり、決して光を宿してはいないのだ。
悲しみを抱えた少年を救うにはまだ彼女達は幼く、純粋過ぎた。
まだ、彼を支える器に至っていない。
一見すると容易だが、その実非常に困難な純一の性格。
そんな乙女達の想いが空回りし続けながら武術会は進んでいく。
「あぁ……死ぬかと思った……」
ぼやきながら純一が歩いてくる。
本気で死にかけたせいか珍しく疲労している。
普段の「かったりぃ」というセリフを口に出せる雰囲気ではなさそうだ。
正直な話、帰還者との戦い以外であれほど焦ったのは久しぶりだった。
「兄さん!……無事でよかった……」
弱った純一に音夢が駆け寄る。
その姿は戦争から帰ってきた男を迎える恋人のソレと酷似していた。
……まあ『死地』という意味では変わりはないが(洒落になってない)。
「音夢、心配かけちまったな……ただいま」
「兄さん……兄さん……っ!」
駆け寄り抱きつく音夢を優しく抱き止め、無事に帰還したことを報告する純一。
音夢の心配してくれる泣き顔が妙に嬉しかった。
その瞳は本当に優しげで、彼女の髪を撫でる仕草はあまりに自然だ。
音夢は泣きじゃくりながらも純一の腕に抱かれ、その暖かな胸に顔をうずめ
ただひたすらに愛する彼の名を呼んでいた。
まるでドラマの1シーンのような感動の光景である。
……それをもたらしたのが自分達の友人であり、先輩だというところに
問題を感じないでもないが……。
で、まぁその問題を引き起こした張本人はというと
「く〜」
ベンチに座って幸せそうに寝息をたてていた。
どうやらいつの間にか戻ってきてそのまま寝たらしい。
純一の安否を気遣っていたその他の少女達は気が付かなかったようだが。
もはや誰もつっこまない。
ちなみに彼女はこの後に予定されていた試合を棄権するハメになる。
(誰も起こしてくれなかった、合掌)
「本当に良かった……兄さんが無事で」
「馬鹿、あんまり泣くなって。顔が腫れてるじゃんか」
音夢の紅くなった瞳を覗き込んで純一は言った。
未だ涙の伝うその目尻を、純一はその指で優しく拭う。
絹を手入れするように、まるで羽毛に触れるかのように。
「あ……」
純一は何を思ったのか、涙で濡れたその指を自らの唇へと運ぶ。
あまりに手馴れた……自分でも意識していない行為。
『え゛!?』
その光景を見ていた少女達の口から思わず漏れる声。
まぁ無理もない。
「はぅ……にいさぁん」
恐ろしいほどナチュラルにキメられてしまった音夢はもうどうでも良くなった。
恥ずかしいなどという感情すら持っていない。
素直に甘えることにしたらしい。
もう一度純一の胸に顔をうずめる。
目一杯今の幸福を味わうように。
「お、おい音夢?」
しかし彼女は何も答えない。
もはや外の音に耳を傾けていないらしい。
幸運なのは、ここが観客席の最後列であり、
友人達しか周りにいないことだろう。
もしいたら音夢は二度と学園に来れなかったかもしれない。
今はいいが、我に返った後が恐ろしかった。
……いや、開き直るかもしれないが。
音夢はそんなことを頭の隅の方で考えていた。
意外にまだ冷静だった。
『風紀委員会の朝倉音夢さん、天枷美春さん、至急本部席までお越し下さい』
突然のアナウンス。
『風紀委員会の朝倉音夢さん、天枷美春さん、至急本部席までお越し下さい』
二度目のアナウンスによって音夢と少女達の時間が復活する。
純一の行為は彼を除いたこの場の全員の時を止めていたのだ。
流石は神器である。(なんて嫌なスキルであろうか)
「……行かなきゃ」
「おう、気をつけてな」
思いっきり後ろ髪を引かれながら音夢は言った。
なのに純一は意外にあっさり送り出そうとする。
音夢は『?』マークを脳裏に描いた。
――――――彼女の本来の予定:妄想という名の電波――――――
『……行かなきゃ』
留まりたい気持ちを無理やりに騙して、愛しい人の下を離れようとする少女。
少年は決してそれを認めてはくれない。
少女は自分のものだと主張するかのように手を伸ばす。
『行くな、音夢』
『でも、兄さん』
音夢の瞳が潤み、純一の瞳から逃れるように俯く。
『そんなの美春に任せとけばいいさ。お前はこのままここにいろ』
その両腕で音夢の腰を抱き、耳元で囁く純一。
恋愛ドラマのワンシーンにも似ている。
『離れたくないんだ……例え一分、一秒でも。俺には音夢が必要なんだ』
『兄さん…………私も……兄さんと一緒がいい』
彼の言葉は麻薬のように甘美。
操られたかのように俯いていた顔は上を向いた。
純一の瞳をじっと見つめ、ゆっくりとその瞼を閉じていく音夢。
純一は迷うことなく、桜色に染まった音夢の唇を自分のものにしようとする。
音夢も本音ではそうされることを望んでいた。
『音夢……』
『兄さん……』
そして二人の唇は重なって――(以下検閲)
――――――んで、現実――――――
「ったく、何ボーっとしてんだ音夢?」
突然動きを止めた音夢。
「しゃあねぇな。おい美春、無理やり連れてけ」
「り、了解です朝倉先輩っ」
音夢は放心したまま美春に連れて行かれた。
彼女の中では妄想が渦を巻いて繰り返されていることだろう。
……誰にも気が付かれないだけ音夢は幸せである。
美春に次いで現実復帰を果たした眞子は怒りと能力で爆発していた。
『爆発』――自身の肉体を媒体にして周囲に爆発を起こす力である。
怒鳴り声と共に彼女の拳が飛んでくる。
「ちょ、いきなりなにやってんのよあんたはーーー!!!!!!!!!」
鈍い音。
「ぎゃ!……………………」
避けることすら叶わずその拳は純一の顔面を直撃し
僅かな悲鳴と共に彼の意識は遠くに飛び立っていったのだった……。
「この女ったらし!」
眞子はそう吐き捨てた。
気持ちも解る。
誰も知らない。
彼が音夢にとった行動。
それは純一にとってあまりにも慣れた行為。
涙を流す『彼女』の目尻を指で拭い、唇に運んでその味を確かめ、
その悲しみを共有し、悲しみを笑顔に変えるためにキスを交わす。
誰も知らない。
それが『彼女』と純一の神聖な儀式であったことを。
誰も知らない。
知らないからこそ、幸せなのだから……。