Eternal Snow

143/絆と縁

 

 

 

それぞれが“宣答”を交わした直後に、朝陽が指を振るった。

直後、五つの黒き球体が朝陽の指先に生まれ、集束されていく。

ゲームをより一層盛り上げるために。あらゆる邪魔をさせぬために。

『各々』の“戦い”そのものが『互い』の“闘い”の邪魔にならぬために。

集束された球体が巨大化し飛翔する。

その球体は各々が祐一と往人を包み、一弥と美凪を包み、

浩平と司を包み、純一と頼子を包み、舞人と朝陽を包み込む。

 

 

 

 「空名の作った擬似空間発生体だけど……使い勝手は悪くないと思うよ?

  どっちにしろこんなリングの上じゃ狭過ぎるからね?

  さっきの約束通り、無駄な被害を出さないためにもフィールドは必要だろう?

  何より、これで他に邪魔されなくて済む……好きなだけ暴れるといい」

 

 

 

リングという限定された空間の中に存在する黒の球体。

次元を歪ませることで互いの干渉を受けぬ、世界より逸脱した空間を形成する。

ゆらりと揺れた陽炎のような空間は、其処に“在って”其処に“無い”場所となる。

飛び回れば一瞬で踏破出来てしまう程に矮小な領域は、逆の空間に変動した。

 

 

 

 「会場の諸君! 君達はこの物語を見守り続ける観客さ!

  舞台に上がれない臆病者として、舞台に上がらない偽善者として、

  舞台に上がらなくて済む傍観者として、このゲームを楽しむことを許可するよ!

  僕はその蛮行を褒め称える! その蛮勇を誇りに思う! その弱き心を尊ぼう!

  そして知るといい! 永遠たる世界の素晴らしさを!

  刃向かうことの愚かさを! 踏み出さぬ君達の未熟さをね!」

 

 

 

侮るように。褒めるように。蔑むように。称えるように。

高らかに嗤う彼の言葉が向く先は、『会場』という“現実世界”。

 

 

 


 

 

 

語るべきことは語り尽くした気がする。

語りたいことは何もなく、語りたいとすらもう思わなかった。

自分がどうしようもなく情けなく、自分がどうしようもなく馬鹿だったことを知った。

感情を抑えきれない愚かさと、その感情を力と変えている愚かさ。

けれど、他に手段を見出せなかった。

感情を武器として、感情を鎧として、感情を盾としてきた。

感情の名前は憎悪。復讐。殺意。

 

 

 

 『――――始めましょうね。私達の絆を』

 

 

 『――――終わらせてやる。俺達の縁を』

 

 

 

絆と縁。一人の少女を巡って生まれた宿業。

似通った二つの言葉に封じられた意味は、片方が明るくとも、もう片方は暗くて。

暗い感情を力として闘うことを選んだ水は、冷酷なる殺意によって氷に変わる。

邪魔の入らぬ空間で思う存分殺そうと決めた。肩の力を抜いて、気を取り戻す。

元より逃げ場も与えない。この空間はうってつけだった。

 

――――己は主役であり、悪役を座するモノ。

 

 

 

 「お前を殺したい。俺のために、死んでくれよな?」

 

 

 「心配ありませんよ、純一さん。貴方の目は、私が覚ましてあげますからね?」

 

 

 

二人の交わした言葉は、それきり。それ以外の会話は必要が無かった。

純一が告げるのは、ただ一言。「殺す」という言葉だけ。

頼子が告げるのは、ただ一言。「愛してる」という言葉だけ。

それ以外の全ては、二振りの紅黒に任せるのみ。

 

純一が駆ける。頼子が駆ける。

愛しいという瞳が不愉快過ぎて、腕を振るった。

邪魔だという瞳が不憫過ぎて、手首を返した。

交差の瞬間、紅黒が弾け合う音が響く。弾ける硬質音の中には、二つの叫びがあった。

玄武を主と為すティシフォーネの声、隷求者を相棒と為すレグロスの声。

戦う者は二人しかいなくても、介在する存在は四つ。

各々が対称であるから。天秤に掛かる重りを己に向けようとして、対立者を拒絶する。

鋼がぶつかる衝撃は足へと貫通することとなり、瞬間、お互いが空間を踏みしめる。

その直後の反応が、二人の持つ覚悟の違いを如実に顕していた。

 

過程や結果がどうであれ、愛しいという感情は『思いやり』と受け取ってもいい。

つまり、頼子の覚悟とは“純一を大切にする”が故の感情であると云える。

幾ら彼を『目覚めさせる』ために攻撃的に動かねばならぬとて、

己の根本にその感情を持つ彼女が、純一に殺意を向けることはありえないのだ。

愛しているから愛して欲しい。愛されたい。極々普通の恋愛感情が、其処にはあって。

 

だが、純一は違う。

復讐という覚悟より繋がる殺意には余分なモノが混じらない。

躊躇や倫理、或いは常識でもいい……そういう一種の『思いやり』が彼には無い。

仮に今の純一に『枷』と成るモノがあるとすれば、美咲の存在しかないのだろう。

「そんなことない!」――――誰かは思ったかもしれない。言ったかもしれない。

彼を大切に思う誰かが言ったとしても。真実そうだとしても、彼は思い込んでいるから。

彼の望むことを止められる資格があるのはたった一人。

もうこの世にはいない、純一が愛した少女だけなのだろう。

 

持ち得る覚悟の質が異なるから――――純一は躊躇いなく踏みしめた反動を利用した。

頼子を振り払うように斧で流し、右足でローキック。

単純明快な手段である分、威力は確実。単に重い一撃となる。

痛みに怯むだけでも効果はある。純一はすかさず手首を返した。

振り払いのために流したティシフォーネを引き込むように振り返し、頼子の胴を薙ぐ。

頼子も弾かれたレグロスを引き込み、胴を薙ぐ斧の先端を擦らせるように防御する。

当然決定打にはならず、紅黒と紅黒の間には朱色の火花が散った。

チリ、チリと火花が無数に咲き乱れ、レグロスの紅黒を朱色に照らす。

頼子は真上に切り上げる一閃を放ち、右足を軸に僅かに跳び上がり、後退する。

無数の火花は合わさることで極小の火に変わり、至近距離より放たれたその一刀は

純一の神衣に触れる。彼の右胸辺りから肩口まで線が走り、線に沿って血が走る。

火と錯覚しそうな紅の赤。純一は顔色一つ変えず左手を線に当て、水を発動させる。

滴る水は癒しの力となって、薄皮一枚に走った血を隠す。

僅かとはいえ神衣に滲んだ血を舐め取り、唾を吐き棄てる。

血を舐め取る様とて喜色満面。そう、やはり彼は喜んでいたのである。

 

舞人の言葉で肩の力は抜けた。荒れた気持ちも落ち着いた。

冷静に笑いを浮かべ、冗句のようなことも囁いた。

気分が普段のソレに近付いたからこそ、今この瞬間、彼は楽しんでいた。

楽しむと同時、許せないという感情を心に留め置き、舞う。

 

前進し大振りする。肉を裂く感触が伝わるのを待つ。

回避される。刃が空を裂き、感触は何もない。殺すために追い掛ける。

追い付く、拳を放つ。防がれる。防いだ腕を突き飛ばす。蹴り飛ばす。

反撃される。紅が煌き、片足を貫かれる。その剣の名が示す通り、血を吸われる。

走った痛みに呻く。少女の顔面を殴り飛ばす。突き刺さったままの剣を引き抜く。

少女へと投げ返す。こんなものを持っていても仕方ない。

少女が受け取る。プレゼントを貰った幼子のように。

その貌は殴られた所為で唇から血が滴っていた。

自分の足から滲み出す血も赤ければ、少女の血も赤い。

どれだけお互いオカシクなっても、根本は同じだったことが愉快。

堕落しかけた主役と、堕落しきったヒロインが喉を鳴らす。

 

 

 

 「……ははっ」

 

 

 「……ふふっ」

 

 

 

その様が面白かった――――同じ“血”であることに反吐が出る程。

その色が嬉しかった――――同じ“血”であることに雌の本能が疼く程。

故に嗤う。嗤う。嗤う。嗤う嗤う嗤う嗤う嗤う嗤う嗤う――!

 

水が全身に纏わり付き、斧の刃紋に集束される。

邪なる己の誓いに従う。紅黒が透明なる水色へと変色し、主の声を、待つ。

艶めかしい空気が分泌され、媚薬のように脳が蕩ける。

隷属し、全てを求め、全てを得る。そのために……主の声を、待つ。

 

拍動の間。呼吸がなされるかなされないかという僅かの後、斧が振られる。

吼える声は猛々しく、雄々しく、残忍な笑みを伴う。

そんな感情を別の表現に喩えるならば『存在を認めない』。

受け止める声は情欲と激情に打ち震えながら、愛情だらけの笑みで。

淫欲に埋もれたように喘ぐ声は、我慢できない程耳障りだった。

そんな感情を別の表現に喩えるならば『犯し尽くされて愛したい』。

 

斧に宿っていた水は、【血の斬撃】にそっくりな軌跡を経て頼子を襲う。

正眼に構えられた剣が線を描く。質量を得ていた水が両断される。

両断と同時、紅黒は黒の輝きを放った。

黒曜石に近いその色は、まさしく邪剣と称するに相応しかった。

彼女はその刃を振った――――が、何も起こらない。

衝撃波のような剣閃は無く、影が走ったのみ。見当違いの攻撃としか思えない。

機先を失った純一が二の足を踏みかけるが、すかさず水の力を形成する。

迷っても意味はない。【氷の飛礫】となった無数の水の塊が弾丸を模し、飛翔する。

牽制に過ぎない弾丸だったが、頼子は虚を衝かれたのかその全てに直撃した。

その結果を確かめるよりも早く突っ込んだ純一がティシフォーネを振りかぶる。

斧の間合いに入った瞬間に、刃を振り下ろす。

結果は追い求めていたものであるから、不満は無いが。……予想よりも呆気ない。

純一がそう思うのも無理は無い程、その一閃は完璧に頼子を捉えていた。

斬撃の感触が、純一に与えられる――――当然、己の肉体を襲う感触だった。

痛みに呻く。足が停まる。止まった直後に眼前の頼子に蹴り飛ばされた。

ひらりと舞ったスカートの中、白いガーターベルトの下着が見えた。嬉しくも無い。

 

攻撃をされたことはすぐに理解出来た。何せこの空間には自分達しか存在しないから。

ならば今の感触は何なのか? 痛みを感じている自分は、何時攻撃されたのか?

間合いは完全に純一のものであり、駆け込みの勢いを得た振り下ろしの一撃だった。

仮にカウンターを受けたとしても、純一の攻撃が鈍重であった筈はない。

合わせて来てもその重みで弾き返せるだけの威力を持っていて然るべき。

だが、腑に落ちない。眼前、振り下ろすその瞬間まで完全に頼子を捉えていたのだ。

その瞬間まで彼女に動きは無かった。ガードするという反応すらなかった。

明確な反撃を受けたのは痛みを感じた直後のキックのみである。

何が今の斬撃になったのか読めない。そう、自分は“斬られた”のだ。

思わず疑問を表情に浮かべて頼子を見遣ると、彼女は嬉しそうに頬を染めていた。

見遣るだけの視線を熱愛と勘違いでもしたいのだろう、おめでたい。

問うた処で返事が来るとも思えない。どういう種類の斬撃かは判断出来ないが

手が読めないならば無理に接近戦をする必要は無いと判断、距離を取って戦う。

 

再び紅黒が透明な水色に変化し、飛翔する斬撃が舞う。

血の斬撃と構造は同じ……ならば先程と同じ手段が使える。

凍気付与。斬撃でありながらの打撃。血という生贄を消費しない分

威力は【血の斬撃】に劣るが、能力を媒体とする点を考えればその利便性はより高い。

呼気を吐き出すと同時に斧を振るう。水は氷となって飛翔する。

僅かに生じる“溜め”の間を潰すために、斬撃の水を生み出す。

鉄すら切り裂く威力を備えた、圧縮された水の刃――――断水刃。

頼子に飛来する二本の斬撃には、一切の手加減が無い。

頼子は思い込む。手加減の無さは愛情の証だと。

『この程度を凌ぐのは当然だろう?』……そう語っているのだと頭の中で変換する。

コクリと頷く彼女は、時間差となる飛び道具を紅黒によって薙ぐ。

純一からのラブコール……頼子はそう考えたのであるから、当然返事をしたためる。

しかし、言葉ではない。互いの紅黒こそがその役目なのだから。

返事を送るため、頼子は駆ける。その紅黒は再び黒曜石の色へと変わっていた。

右の脇下へと剣先を伸ばした下段構えより、純一の間合いに飛び込む。

黒曜の刃が振り下ろされ、紅黒の刃が受け止める。そうなるタイミングであり、

事実純一は受け止めた衝撃を機として振り抜き、頼子を斬るつもりだった。

が、黒曜の刃は純一の斧をすり抜けた。刃が存在しないかのように、するりと。

彼女はその現象に驚くことなく、次撃の横薙ぎを放つ。

この一撃もまた斧の存在を無視するようにすり抜けた。

防御を無視する斬撃――? と思考が納得すると同時、気付く。

剣の間合いに入っていながら、防御を失敗したというのに何故冷静に思考しているのか。

そう、自身の『ダメージ』が無いから、その痛みに戸惑わないのだ。

刃は防御を貫いた。貫く代わりに裂けた筈の体をもすり抜けたのである。

こんな奇妙な斬撃が無意味である筈が無い。それ位は容易に解る。

ならばこの技は何を目的としているのか。ふと気付く。刃の色が元の紅黒に戻っている。

つまり黒曜石の状態でなければ今の奇妙な斬撃にはならない、と読める。

その効果は何なのか――――思考した瞬間、先刻の痛みを思い出した。

導き出された思考は場に留まる事を、善しとはしなかった。

正面の頼子に体当たりをしてその場から退却する。

肺腑に貫通させる衝撃を加えて突き飛ばす。その時点で二人の距離は開く。

ともあれこのタイミングでならば如何に対応しようと避けられることはなく、

自分を斬りつけるだろう『先刻の二撃は当たらない』筈、と結論したからだ。

彼は思考の中で“先刻の二撃”と評した。

つまり、純一はこう読んだのである――――黒曜の刃の効果は『斬撃の先行投資』と。

構造としてはこうである。まず当然の行為として、空間を無造作に斬り付ける。

これにより、斬った場所に『斬った』という事象が成立する。

しかしその刃は何も効果を及ぼさない。仮に何かが存在していても、斬れないのだろう。

だがそれでいいのだ。如何なるタイミングになるかは判らないが

斬撃は一定の時間を経た後に『斬った』という現象が成立するのだから。

言い方を変えれば――――時間差の斬撃。

この構造ならば先刻の『頼子に蹴り飛ばされる直前の斬られた痛み』が納得出来る。

あの時も彼女は黒曜の刃で空間を斬った。

今思えば、自分は丁度その斬撃が起こる空間に飛び込んでいた。

先払いされた斬撃が、時間経過により支払われた結果、直撃したのだろう。

嵌ればつくづく厭らしい攻撃である。見事にその一撃を浴びた以上それは事実だった。

しかし、その力を読みきった。実際、彼の読みは正しかったことを明かしておく。

レグロスが黒曜石の輝きを放った時に繰り出す斬撃は『斬撃の遅延発動』の力がある。

効果は読んで字の如くであるし、その具体的内容も純一の予測通り。

彼が頼子を突き飛ばし『元々居た場所』から離れたのも正しい回避法。

尤も、空間斬撃に限って云えば、の話であるのだが。

 

 

 

 『ざーンねン賞! ってきタもんだコレが!』

 

 

 

紅黒の剣、レグロスが言い放った直後、二重の斬撃が純一を斬り裂いた。

幻痛ではない確かな痛みは、純一の神衣に赤を滲ませることとなる。

剣より漏れ聴こえる下卑た笑い声は、純一の思考が漆黒に染めるのを許さなかった。

純一は思う。何故、と。読みは完璧な筈だ。他の見解が思い浮かばない程に。

その疑問は当然彼の顔に顕れることとなり、返答がやってくる。

 

 

 

 『ああ勿論惜しいぜェ? テメェはこう思っタんだろ?

  俺サマの力は“斬撃の効果を遅らせる”んだ、ってヨ。

  褒めてやるぜ? ソレについては流石正解オオ当たり〜! 的中万歳〜♪ ってな。

  で〜も残念! 俺様の斬撃にハもーチット秘密があルんだゼぇ!』

 

 

 

頼子の手に握られたレグロスは、その刀身を紅く染めたまま解答を続ける。

黙っていればいいものを……という思考は彼の剣にはない。ただ愉しみたいだけなのだ。

 

 

 

 『俺様の力は“斬った”事象の遅延! 

  空間を斬ればその空間に遅れて斬撃が発生するってシロモンよ!

  ま、読み通りだわなぁ? ソコマデは。――――ダ・ケ・ド、だ! 

  俺様の称号は【吸血剣】……つまり標的はイキモンってことダ。

  俺の力で“斬る筈だった”のがイキモンだったら、いくら“斬った空間”から

  逃げようとカンケェねぇ。てめぇを“斬った”っつー事象が発動して、

  必ず“斬撃”が襲うって寸法よ! テメェは俺様が黒の状態で“斬った”。

  だから“斬られた”。ソれだケのコトだぜ? どウ逃げようが意味ネェんだよ!』

 

 

 

ご高説痛み入るが単純な話、彼の剣は『タイミングを狂わせる』のである。

そう喩えてしまえば地味な技とも思われるだろうし、少なくとも格好良くはあるまい。

だが、冷静に考えてこうも厄介な技は無いのである。

そもそも『斬撃をどの程度まで遅らせるのか』が判明した訳ではない。

効果は“斬った”空間に限定するが、もし仮に頼子の周囲一帯を“斬り”まくれば

それだけで【刃の盾】の完成である。となると不用意に突っ込む訳にもいかない。

更に。レグロスの言葉を信用すれば……というより純一の体が証明しているが

一度斬撃に“斬られて”しまえばその痛みは確実に襲ってくる。

あの斬撃は防御を防御とは認識しなかった。つまり【黒曜の斬撃】を防ぐことは叶わない。

防ぐ方法はあるかもしれないが、それを調べていられる余裕も無い。

結果、一方的に避けるしかないということになる。地味だから、と侮れば敗北は必至か。

 

斬撃を受けた箇所に手を当て、癒しの力を送り込む。単なる血止めで済ませておく。

三度斬られたが、頭に昇った血を適度に抜いてくれたと思い込めば許容範囲。

眼光を緩めることなく、純一は頭を巡らせる。

正直言って黒曜石の輝きを放った状態のレグロスは厄介だ。

機先を制される形になると鬱陶しくて仕方ない。

 

 

 

 「喋り過ぎですよ、レグロス。私達の間に入り込まないで下さい」

 

 

 『……へいヘイ。そりゃ失礼シマシタ〜♪』

 

 

 

そんな会話を思考の隅に片付け、純一は殺意を切り替え直す。

レグロスは「黒の状態で」と明言した。

そもそも敵のセリフだ……信じていいか断言は出来ないが、少なくとも

「黒の状態」に関しては疑いなく防御無視の遅延斬撃になるのは間違い無い。

近付いたらその斬撃に見舞われる。が、遠距離戦に拘っても防がれているのが現状。

直接屠りたいという欲望もある――――短慮な結論だが、接近戦に拘る。

 

 

 

 「ティシフォーネ……俺達も行くぞ」

 

 

 

斬られることを覚悟し、水の力を全て回復に注ぐこととする。

全身に水の膜を張り、傷を負うと同時に自動治癒が可能な状態へと操作する。

紅黒の斧は主の呼びかけに応え、唸るように震える。

水を回復に回しきる以上、後の頼みはティシフォーネ以外には存在しないから。

 

 

 

 「頼子」

 

 

 「はい?」

 

 

 「最後になるかもしれないから言っとく。

  結果的にこうなったから、手放しで喜ぶ気も無いし、お前を許すつもりもない。

  心の底から恨んでるし、生まれ変わってもお前を殺したいって思ってる。

  何度もそういう夢を見て暮らしてきたしな。……別に後悔なんてしちゃいねぇけど」

 

 

 

何故そんな言葉を吐いているのだろう、と純一は頭の片隅で思う。

ただ、今この場で言わなければ――――かつて感じていたソレすらも忘れそうだから。

確かに抱いていた“感謝”と云う言葉の意味を。

 

 

 

 「美咲や……頼子に逢えたことだけは、いい思い出だった。

  遮二無二鍛えて増長して、天狗になってたもんな……あの頃の俺は。

  二人に逢えなかったら、きっと俺はダメな奴に成り下がってただろうし。

  神器なんて夢のまた夢。……なのに成れたのは、間違いなくお前の所為だ」

 

 

 

“おかげ”ではなく、“所為”であること。それは恨み言に他ならなかった。

神器なんて幻想に過ぎない。それを知る彼だからこそ、言える。

 

 

 

 「けど」

 

 

 

頼子の瞳を捉え、彼は囁く。

 

 

 

 「朝倉純一は、幸せだったよ。美咲や頼子が居てくれたから、幸せだった。

  幸せだった……だからこそ、今が辛い。

  俺を苦しめるその絆も、その縁も――――もう要らない」

 

 

 

永遠に堕ちかねない負の感情。

生きるという絆を棄てかねない言の葉。

それに頼子が喜びを見せたとしても無理はないだろう。

 

 

 

 「――――俺の傷も、痛みも、悲しみも、憎しみも、執着も。俺を苦しめる何もかもを」

 

 

 

しかし譲れぬ今との絆がある。

だからこそ。全てを、全ての元凶を。

 

 

 

 「――――頼子。お前を殺して……終わらせてやる」

 

 

 

己の腕で、叩き潰す。

脚を据え、腰を落とし、斧を後ろ手に引く。

自分自身を脅迫するように「終わらせる」と何度も告げた。

その脅迫は、誓いだ。だからこそ躊躇無く駆け出す。

間合いに飛び込みながら片手で斧を振り払い、空いた手は頼子の胸を突く。

拳ではなく掌底を突き入れ、体勢を崩させて斧を見舞う。

構えられたレグロスがティシフォーネの一撃だけは凌ぐ。

その分純一の掌は頼子へとダメージを与えることとなり、彼女の顔は苦痛に歪む。

 

 

 

 「……っ! やんっ!」

 

 

 

頼子は攻撃を浴びながらも、何処か嬉しそうな声色で純一に抗議する。

胸を隠すように頬を染めながら、それでもレグロスを離さない。

そのリアクションの意味が解らない純一は、構うことなく再び斧を振りかぶる。

 

 

 

 「あ、荒々しいのも嫌じゃありませんけど! どうせ触るんでしたらもっと優しく……」

 

 

 

意味は解った。つべこべ言わずとも解った。

 

 

――――てめぇ、もう死ね。

 

 

瞳は語る。ギチリ、とこめかみを引き攣らせ、純一は斬撃を繰り返す。

ペース配分を完全に無視し、筋肉が乳酸を溜め動かなくなることすら考えずに刃を振る。

“斬”ではなく、“断”という音。斬なる剛撃ではなく、撲殺を狙う轟撃である違い。

断、断、断。水元素を一切含まない、純一が持つ単独の力技。

発生した空間の地面を抉り、頼子が吸っていたであろう空間の酸素を裂き、

頼子の頭を潰そうと腕を振り下ろす。差し迫る紅黒から彼女は目を逸らさない。

覚悟を決めたのだろうか? いや、考えるだけ手間である。迷いは元より無い。

頼子はティシフォーネから目を逸らさず、空いた掌を斧へと向け、皿状の膜を張る。

キィン、という硬質音が直後に鳴り響き、彼女の掌は斧を受け止めた。

 

 

 

 「熱い……ですけど、我慢できますよ?」

 

 

 

純一さんのですから、と言外に語るその顔は、“女”のソレで。

何か勘違いでもしてるんじゃないか、と改めて感じ取った。

好きだという想いが限界を超えて「病んでしまう程好き」というのとは違う。

好きだという言葉に酔い痴れて、単純に病んでいる。

ストーカーと何が違う? いや永遠に堕ちた分ストーカーよりも最悪だ。

 

 

 

 「お前とラブコメやるほど俺は酔狂じゃ……ねぇっ!」

 

 

 

願い下げだと怒りを込めてティシフォーネを正面に突く。

それまでの線撃ではない点撃は、相手の虚を突くのに最適の筈、と。

だが読まれた。いや、頼子本人は気付かなかったのかもしれないが、

彼女に握られたレグロスが独自に反応し、点撃に刺突を当ててきた。

伸ばしきった腕と腕が激突し、同量の圧力が行き場を失い互いの体を揺さ振る。

しかし純一が下地を撒いていた水の力がその衝撃を軽減させ、

最小限の反動で体勢が安定する。痛みがない訳ではないが、誤魔化せる。

振って、振って、振り飛ばして、振り切って、振り上げる。

幾度も振りながらもレグロスは対応し、また頼子自身も防ぎきる。

何度も繰り返す内、腕の動きが僅かに鈍くなっていくことに純一は気付いていた。

疲労が溜まっている。並の武器を扱っているならば話は変わるが、

彼の得物は永遠殺しの魔装具。こうなるのも当然だった。

どう考えても長くは持たない。仕掛けるなら今しかないのだろう。

乳酸の溜まり具合や純粋な疲労の度合いから見て、攻撃を繰り出せるのは都合十回。

水の力で補正を掛けてもそれがいい所だ。余裕があるとは言えない……足りないのだ。

唇を噛み締めて脳内麻薬を意識する。たった十回、身体を誤魔化すために。

 

 

 

 「ぁぁぁぁっ!」

 

 

 

吹き溜まった感情を上乗せして、一。

振り放った隙を潰すために振り放って、二。

呼吸をさせる暇を与えぬために、三。

逃げるための距離を稼がせないように、四。

追い討ちとしてのシンプルな、五。

本命を悟らせなくするフェイントとしての、六。

騙しも騙りも一切含まない全力で、七。

邪魔をする剣を弾き飛ばすための大振り……手元から吹き飛び、八。

盾代わりになる頼子の手首を斬り飛ばして、九。

一瞬呆気にとられ、やがて苦痛の声を漏らし始めた彼女へと、本命の刺突。

 

九度の攻撃は捨て石。攻撃という攻撃に目を慣れさせ、虚を狙う。

それまでの攻撃は全て『振り』の斬撃であるから、

『刺突』のリズムに反応が遅れる筈だと信じきって。云わば、賭け。

全ての防御をすり抜けて穿たれた一撃は、ザク、という確かな感触を腕に伝える。

殺った――――! と頭が判断するよりも早く腕が前へ前へと突き動く。

めり込む肉の感触は絶対だ。喜悦に頬が歪むのを自覚しながら

其処で初めて反射的に動いていた腕の先……頼子の顔を見遣る。

今度は勘違いではない。はっきりと己の紅黒が彼女の右肩周辺を刺していた。

槍斧というリーチの差があるから、頼子の抵抗は届かない。

彼女の顔は苦痛に歪み、血を吐き出す。かふ、と吐息に混じって漏れた紅は、

ティシフォーネが内臓を傷つけた証に他ならない。肺の一つも傷付いたか。

紅黒という呪いを互いに持つ身として、その赤の意味は重い。

 

 

 

 「奪い取れっ!」

 

 

 

ティシフォーネに命ずる。紅黒の元となったのは、帰還者の血と肉と骨と灰。

邪道によって形作られたその刃には、吸血の力が宿る。

自身の血を吸わせ斬撃と為すのならば、当然他者の血ですら貪り喰らう。

吸い取るがいい。己を形作った穢れた血、それに連なるその女を。

刺し貫いたまま血を奪い、そしてその骸を晒せ……と。

ジュルジュル、と喉を鳴らすかのように槍斧が血を啄ばむ。

あたかもレグロスと全く同じであるかのように、同じ音で。

 

 

 

 『なっ!? テメェっ! 何勝手なことしテんだぁっ!?』

 

 

 

レグロスは喚くが、転がされた剣に出来ることはない。

いや正確に云えば出来なくは無いのだが、“今”は出来ないのである。

その声に、“うぜぇ”という視線を込め。しかし躊躇うことなくグリ、と斧を突き入れる。

 

 

 

 「ひぐぅっ!?」

 

 

 

声でさえも鬱陶しく感じるが、ダメージを与えていることに歓喜した。

冷静に思えば、そういう行為に歓びを感じている己は多分最低なのだろうな、とも。

だが、この行為は誓いなのだ。言い訳でも建前でもなく、自分が望んだこと。

それを隠すつもりは無く、何度も語っているように、「ソレ」以外には持っていない。

だからこそ、そのまま殺す。跡形も無く潰す。存在を滅ぼす。記憶から、消す。

 

 

 

 「――――失せ……ろっ!」

 

 

 

それまで全身を覆っていた回復用の水の力を、全て攻撃に転じさせる。

ティシフォーネを媒体に元素能力を解放し、刺し貫いた箇所から氷を発生させる。

外側ではなく、内側からの冷凍刑。逃げられるよりも早く、より強引に。

貫いた感触に冷気が灯り、内臓から僅かずつ氷が形成されていく。

 

 

 

 「っ!?」

 

 

 

寒気に頼子が身を震わせる。刺さった斧がじわりじわりと身体を冷やしていく。

このままでは拙い、と理解せざるを得なかった。放っておけば氷付けにされる。

それでも純一が己の氷像を飾ると云うならば文句は無いが、美咲という女の亡霊に

血迷っている今の彼は、騙されたまま躊躇いなく氷像の自分を破壊する。

幾ら永遠に染まったとはいえ、砕けたら再生は出来ない。

つまり回避するしかないのであるが……刺さった槍斧が抜けるとも思えない。

しかも片手は飛ばされた。この程度の損耗は回復可能だけれども、痛かった。

どうにかする手はある。刺さった穂先が右肩周辺だったことも運が良かった。

しかし、今よりも痛い思いをするのは間違いなくて、勇気が出ない。

 

 

 

 「――――!」

 

 

 

声に成らぬ純一の声がした。ピキピキピキ、と硬質な音が響く。

頼子の身体の反応が鈍くなり、本格的に動かなくなり始める。

間が無い。あと少しで氷牢に封ぜられてしまう。……そう思ったら怖くなった。

封じられたら、何も出来ない。壊されたら、死ぬ。

そうしたら純一の目を覚まさせられない。彼が抱き締めてくれない。嫌だ。

純一に寄り付く他の女……泥棒猫も消せないし、姉の亡霊も殺せない。嫌だ。嫌だ。

許さない。姉さんも、他の女も、誰も彼も。私しか、認めない。

そう、彼の拒絶はただの迷いなのだ。昔の幻影に縋っているだけ。今に救いが無いから。

仮にもし万が一正気で言っていたとしても、永遠にさえ来れば変わる。

 

――――私が、変えてみせる。

 

 

その蒙昧なる愛情が、何故反転したのか。

反転さえしなければ、未来は変わっていたかもしれないのに。

しかしこれが現実であり、過去は変わらない。故に彼女は永遠に至った。

過去が変わらないから、これからの未来を変えようと。

変わるためならば、痛みなんて構わない。その腕に抱かれる喜びに比べれば、些事。

彼女は微笑む。透き通る笑みはえくぼを描き、頬は紅潮し、瞳は潤み、吐息は甘く、

彼の全てを抱え込むように両腕を伸ばし、故に右腕の肉は抉れるが構うことは無く。

一歩、歩を進める。二歩、歩を前に。三歩、四歩。

歩く都度右肩の肉がこそげ、ティシフォーネが穿っていく。冷気も回る。

純一にはその意味が解らない。何をしたいのか解らない。

ただ怖気が走り、水の力を送り込む。早く凍れ、と斧に全力を送る。

永遠という抵抗がなければあっさりと終わるが、腐っても使徒であるために抵抗が強い。

五歩。頼子の右腕が落ちる。ドサリ、と空間に白磁の腕が転がる。しかし、笑みは消えず。

彼女の右肩から血が噴き出し、手首を失った左手の断面が純一の頬に触れる。

ヌチャリ、とした液体の感触と、鉄の臭いが鼻を突く。

吐息が掛かる程近くに頼子の顔があった。自分の腕は停まっていた。

ペースも何も無く振り回した所為で言う事を聞かない。

ティシフォーネを突き出した格好のまま動かない。

彼女の体を押し退けたいのに何も出来ない。臭いが気持ち悪い。吐き気がする。

 

 

 

 「より……こっ!」

 

 

 

声だけが抵抗の意を汲むが……直後、塞がれた。彼女の唇が、触れていた。

過去以来、(際どいのはあれど)美咲以外とはしていなかった筈のキスをされていた。

 

 

 

 「――――!?」

 

 

 

血の味が口内を蹂躙する。彼女の舌が歯垢を舐め取っているのが解る。

抵抗しようとした。出来うる全てで拒もうとした。

が、十撃という限界を定め、尚且つ元素能力すらも送り込もうとしていた体は

一時的に麻痺した状態となり、まるで神経が無くなっているかのように動かなかった。

神経が無いというのは比喩に過ぎないから、触覚は消えない。

頼子の舌が歯壁をこじ開け、己の舌と交わる。一方的なディープキス。

唾液が吸い取られ、血の味が混じった唾液が送り込まれる。

彼女の舌が喉へと送り出し、一方的に嚥下する羽目となる。

頼子の瞳は嬉しそうに開いたり、浸るように閉じたりを繰り返す。

舌が絡め取られ吸い尽くされ舐められるその感触は、ただひたすらにおぞましかった。

やがて思う存分快楽を貪った彼女は、名残惜しそうに唇から離れていく。

 

 

 

 「がは……おぇ……げほ、ごほぉっ!」

 

 

 

離れた瞬間呼吸を取り戻したかのように唾液を吐き棄て、頼子を睨む。

口を拭いたかった。濯ぎたかった。送り込まれた血と唾液を浄化したい。

しかし身体はまだ動いてくれない。今の出来事がショックなのか余計に、である。

 

 

 

 「えへ……やっと、キス出来ました」

 

 

 

腕を失い、手を失ったにも関わらず頼子は嬉しそうだった。

念願叶ったと踊るようにステップを踏み、先程斬り飛ばされた左手首の下へと歩く。

転がった左手に腕の断面を押し当て、数瞬。細胞が脈動し、腕と一致する。

神経が通ったことを示すために左手の人差し指がピクリと動き、軽く拳を握る。

「ふぅ」と吐息を漏らした彼女の左腕は、一切の傷無く再生されていた。

 

 

 

 「ふふ。これが私の使徒としての特性。付けた名前は【吸愛】です。

  他者の体細胞を摂取、吸収して自己修復を行う能力なんですよ。

  痛いことに代わりありませんからあんまりしないんですけれどね?」

 

 

 

能力の本来の名は【吸精】であるのだが、彼女は独自に名を付けた。

隷求者が司る力は求愛という行為であるから、と。或いは自己愛を揶揄するのか。

続いて自ら切り落としたと云っても過言では無い右腕の下へと近付き、拾う。

肩に嵌めるように断面を接着させ、数瞬。先程と同じく細胞が脈動し、原型に戻る。

 

 

 

 「普通はキスなんてしないで、レグロスに吸収させた血で代用しますけど。

  相手が純一さんですから、これくらい恥ずかしくも何とも無いです。

  それに、私達の関係なら……当然ですもんね?」

 

 

 

頬を染め、蕩けるように瞳を弓なりにして、左手でレグロスを拾う。

切っ先を地面に向けたまま、動かぬ純一に近付き、その頬を撫でる。

 

 

 

 「解って貰えましたよね? 永遠って、凄いんですよ?

  ただの女の子だった私がこうなれるんです。望む全てがある世界。

  だから純一さんも、一緒に永遠で暮らしましょう? ね?」

 

 

 

ぞくりと全身に走る悪寒。このままでは『本当に永遠に堕とされる』という予感。

元々永遠を望んでも可笑しく無い地盤があるから、魅入られたら逃げ出せない。

嫌だ。永遠に堕ちる訳にはいかない。望みを果たさず、死ねない。

美咲に顔向け出来ないのは、嫌だ。

抵抗するために動けと脳は命じるが、何の反応も示さない。

ただ頬を撫でるその感触だけが疎ましい。

何か無理やりにでも動かす手段があればと願った。

 

 

 

 「御免だ。絶対に」

 

 

 

今レグロスに刺されれば死ぬかもしれない。力が送り込めないから回復も出来ない。

意思に従うのは口先だけ。命乞いでもすればいいのかもしれないが、

そんな己を想像しただけで反吐が出る。屈するのだけは認められないから。

 

 

 

 「――――じゃあ、いいです。このまま、連れて行きますから」

 

 

 

ショックだったのだろう。一瞬蒼白になった頼子の言葉に、色が混じる。

熱に浮かされているようで、その実冷たい眼差し。

“YES”以外の言葉は聴く耳を持たないと告げる声の色。

真っ向から自分勝手な言葉を浴びせ掛けられ、彼の中に怒りが込み上げてきた。

 

 

――――声?

 

 

そして。ふと気付いた。

確かに身体は動かなくて。為すがままにされるのみ。抵抗も不可能である。

けれど、喉は鳴る。口だけは意思を乗せられる。なら……最後の手段が残っている。

やるべきものではない。後の事を考えれば、絶対に執るべきではない。

かつて一度だけ使用し、そして限りなく失敗した最終手段。

どれだけ贔屓目に見ても、もって一瞬。だが、他に手はない。

回復を待っていたら、おそらくそれより早く永遠に連れ込まれる。

 

 

――――成功しようとしまいと、今よりマシだろっ!?

 

 

迷う気持ちを叱咤して、言葉を放つ。言の葉を紡ぐ。言霊を描く。祝詞を刻む。

喉がようやく音として認識する程小さく、舌を動かす。

眼前に存在する頼子が聞き取れない程小さく、しかし確固なものとして。

奏でる言葉は歌。自身を一個の楽器と喩え、自身を未熟な生命と識り、

自身を矮小な物体と捉え、自身を自身の中へと埋没させる。

名は無く。存在は無く。名は玄武。存在は己。

名は純一。存在は俺。名は在る。存在は在る。

名は無い、存在は在る。名は在る、存在は無い――――。

 

 

 

 「冷厳ナル灰燼ノ甲竜――――」

 

 

 

問う。

 

 

 

 「我捧グ。我至ル。我下ル。我ハ流ヲ司ル者。我ハ全テヲ凍テ尽カス者」

 

 

 

答えよ。

 

 

 

 「我ハ汝。汝ハ我。我ハ汝ト共ニ。汝ハ我ト共ニ」

 

 

 

与えよ。

 

 

 

 「我、代価也。汝、褒章也」

 

 

 

捧げよ。

 

 

 

 「我、汝ニ従イシ者也」

 

 

 

刻めよ。

 

 

 

 「――――汝、我ニ従イシ者也!」

 

 

 

閃光は、魂を灼く。

 

 

 

 「きゃぁぁぁぁっ!?」

 

 

 

覚醒は麻痺した体への刺激となり、その余波は眼前の彼女へと向かう。

衝撃により弾き飛ばされた彼女には現象の意味が理解出来ない。

 

 

 

 「―――――――」

 

 

 

紡ぐ声が在る。

それは負け犬の遠吠えで。それは勝者の凱歌で。

無音の暴虐。覚醒という衝撃。

神獣と云う秘め事。封じられた四方の霊獣。

水を宿し、北を守護する『銀』の玄武。

 

それは呪。自己を殺し内奥へと至る封印を解く、唯一の呪鍵。

神器『玄武』としての、本来の力を引き出す言霊。

その髪は銀色に霞む程の灰色へと色を変える。

そして、誰かは気付いただろう。

純一の瞳の色までもが、銀色を宿した灰色に転じていることに。

 

其は純一であり、玄武である者。

其は玄武であり、純一である者。

 

 

 

 「――――――――――――――――――ァァッ!」

 

 

 

灰燼の穢れを宿す清浄なる甲竜が、吼える。





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