Eternal Snow

118/宵闇の中で眠れぬモノ

 

 

 

夜の帳が下りる。

完全な深夜に動くものなぞなく、廊下を照らすライトだけが静かに佇む。

無造作に腕時計を覗くと、時刻は午前0時を過ぎていた。

明日(暦の上では既に今日なのだが)開会式である以上、起きている者は少ないだろう。

それが解っていて彼――相沢 祐一――は自分の部屋を抜け出しロビーへと向かう。

他のルームメイトの四人は部屋で熟睡中。

もしかすると自分が部屋から出て行ったことに気付いているかもしれないが

誰も声を掛けてこなかった以上、寝ることを優先したいのだろう。

祐一とて単に眠れなかったので少々外の空気が吸いたかっただけのこと。

わざわざ誰かを連れて出て行くような真似はしない。

単なる思い付きとはいえ、パジャマ代わりに纏っていたタンクトップでは少々寒かった。

出てきたことを多少後悔しつつも仕方なくといった感じで

己の能力によって風を薄く纏い、体温の調節を図る。

知る者からすれば実に贅沢な能力の応用なのだが、生憎それを突っ込む者はいない。

廊下を歩いてエレベーターに乗り込み、一階を目指す。

静かなモーター音を響かせて、箱型の密室が動く。

腕を軽く組みつつ、背中を壁に預けるようにしてそこに佇む。

祐一は一瞬の睡魔に身を委ね、薄く瞳を閉じる。

 

 

 

――――首に掛けられた琥珀色のペンダントがライトに乱反射し、胸元を薄く染める。

 

――――それは誰にも語らぬ祐一の孤独か。

 

――――誰かに縋らぬからこそ、想いが揺れることはなく。

 

――――だから、助けを呼ぶことも知らなくて。

 

 

 

ピン、という音がして祐一が瞳を開く。

階数表記は目的地である一階。

流石にこんな時間では誰かが乗り込んでくるということはなかったらしい。

祐一からすれば、下手に教師だったりすると会った瞬間に

何かしらと言われそうなので、誰にも出くわさないのなら最良。

 

エレベーターから出た後、真っ直ぐにロビーの自販機へと歩き出す。

飲み物でも買って、ソファーに腰掛けゆっくりしようという腹積もり。

小銭を取り出し、初めからソレと決めていたのか

迷わず350mlのスポーツドリンクのボタンを押す。

程なくガタンという音と共に品物が出てくる。

祐一は無造作にソレを取り出し、おつりのレバーを回す。

よくある図のまま何事もなく流すつもりが、ピピピ……という音と電飾に目が向いた。

所謂当たったらもう一本プレゼント、というやつである。

どうせ当たりっこ無いと解りきっているのに確認してしまうのは人の性か。

立派なホテルの自販機にそういった機能がついていていいのかと疑問が無くは無いが

結局の所背後にあるのはあの長官達がトップを勤めるDDだ。有り得ない話ではない。

等と考えつつ祐一が電光内を覗いた瞬間、景気の良い音が響き……見事当たった。

 

 

 

 「お? おお!? ……当たった。やっべ、初じゃね?」

 

 

 

高校生にもなってたかが自販機の『もう一本』に当たったのが

初めてというのも若干微妙な気はするがともあれ。

全く予想外の流れに、どれにするかと指を彷徨わせる。

 

 

 

 「あ、佐祐理はこれがいいです〜」

 

 

 

と声がして、指された品物――紅茶――のボタンを押す祐一。

 

 

 

 「はいはい、と。どうぞ佐祐理さ――――ん?」

 

 

 

伸ばされた少女の手に、ポンと缶を乗せる。

特に違和感を感じないまま思わず従ったが……佐祐理?

彼女の専売特許である『ほえ?』と言いたそうに

祐一がそちらの方向を見ると、にこにこ微笑む佐祐理の姿。

何の変哲もない水色無地のパジャマが間違いなく似合っていた。

 

 

 

 「――――あれ? 佐祐理さん?」

 

 

 「はいっ、祐一さん」

 

 

 

祐一にとって実に見覚えのある少女が、そこに居て。

あまりに何気なく声を掛けられたものだから、

却って無意味なオーバーリアクションをせずに済んだ。

夢ではない。こほん、と気を取り直して言葉を投げ掛ける。

 

 

 

 「どうしたんです、こんな時間に?」

 

 

 

時刻は今更確認するまでもない。祐一のように起きている者は稀な筈。

そんな祐一の表情と言葉に佐祐理はくすくすと笑って

 

 

 

 「祐一さんもそうじゃないですか。自分の事は棚に上げちゃうんですか?」

 

 

 「あー。いや、別にそういうつもりでは」

 

 

 

面を食らった祐一の顔に、更に笑みを濃くする。

ひとまずからかうのはこの辺りで充分と佐祐理は口を開いた。

 

 

 

 「ちょっと眠れなかったので、ロビーでお茶でも飲もうかな、なんて。

  祐一さんのおかげで助かっちゃいました♪」

 

 

 「いえいえ。どうせ棚から牡丹餅でしたし気にしなくてもいいんですけど、

  ……あ、なるほど。要する目的は俺と同じってことですか」

 

 

 

佐祐理の言葉に納得の意思を見せた祐一だったが、冷静になってみよう。

逆にそれ以外の理由というのは無いと思われる。

 

 

 

 「でも、こんな時間まで起きていて大丈夫ですか?

  多少無理してでも寝た方がいいんじゃ?」

 

 

 「心配ないですよ。明日は開会式だけで、佐祐理達の試合は

  明後日ですから、少し位起きてても問題ありません」

 

 

 

第一回戦は初日と二日目に分けて行われる。

二日目に試合があるのなら、明日は開会式と観戦しかない。

無理に今眠らなくても、さして悪影響は及ぼさないのだろう。

 

 

 

 「流石に三年目ともなると余裕ですね〜。

  俺なんて明日が初めての合同大会ですから緊張抜けないっすよ。

  伊達にリーダーじゃないですね? 佐祐理さん。

  確か“レゼトゥワル”でしたっけ? 中々洒落た名前ですよね」

 

 

 

祐一はそう言うが、実の所緊張なんて一切していない。

唯一懸念があるとすれば、浩平達と行うバンドだけであって

大会そのものに対する感慨なんてものは持ち合わせていないのが本音だ。

何事もなく済んでくれればそれでいい……それ以外の言葉は無いかもしれない。

とはいえそれを明かす訳にはいかないので、一般的な反応で場を取り繕う。

 

 

 

 「覚えててくれたんですか?」

 

 

 「当然じゃないですか。ウチの学園の優勝候補、しかも俺にとっては

  幼馴染が集合したチームですよ? 知らない方が薄情ですって」

 

 

 

“レゼトゥワル”――フランス語で『星』の意を為す単語である。

佐祐理、舞、名雪、あゆ、香里の五人がチームを組み、付けた名称。

祐一からしたら、彼女達に最も似合う良い名前だと思う。

放つ輝きは褪せることなく、己を照らしてくれるかもしれない星。

神奈を月と喩えるなら、まさしく彼女達は月と共に在る星々の煌き。

どちらとも欠かすことの出来ない輝きであることに変わりはなく。

 

 

 

 「ありがとうございます。祐一さんにそう言って貰えると嬉しいです」

 

 

 「俺達の間柄でその程度のこと、畏まる事じゃないでしょ?」

 

 

 

祐一はそう言いながらソファーを促し、そこに腰掛ける。

 

 

 

 「立ったままってのもあれですし、どうせなら

  夜更かし者同士、ゆっくり語り合うってのはどうです?」

 

 

 「こんな夜更けに二人きりですか?……望むところですけど」

 

 

 

チェックアウトの時間をゆうに過ぎているので、ロビーにはもうスタッフの姿はない。

普段の営業時なら話は変わるかもしれないが、

今は修学旅行生徒を受け付ける貸切ホテルと何も変わらない。

わざわざスタッフを配置する必要は無かったのである。

 

 

 

 「さ、佐祐理さん……いくら俺でも襲う覚悟はないですって。

  そういう冗談はやめて下さいよ、マジ心臓に悪いですから。

  俺だからともかく、他の誰かだったら佐祐理さんの方が危ないんですからね?」

 

 

 

祐一にとってはあくまでも彼女の身を案じての発言だったのだが

向けられた佐祐理はどこか不服そうに、

 

 

 

 「祐一さんじゃなかったら言いませんよ」

 

 

 

と呟き、彼の対面に位置するソファーに腰を下ろす。

そう、祐一でなければ誰が応じるものか。彼だから許せるのだから。

対象となる当人はその感情の機微を理解しているのかいないのかさっぱり解らない。

いや、解るのならやきもきする必要なんてちっとも無いのだけれど。

祐一はその言葉が聞こえていたのか、それとも意図的に

無視していたのかは解らないが、別段返答することもなく缶を傾ける。

 

 

 

 「さぁて、何話しましょうかね? 

  俺ここんとこ色々忙しかった所為で、佐祐理さんはもとより

  チームの連中以外とは碌にこういう時間作ってませんでしたからね。

  今更ながら拙ったっていうか、あー。舞だったら何て言うか」

 

 

 「そうですね、舞だったらすっごく怒っちゃうでしょうね。

  ちゃんとフォローしておかなきゃ駄目ですよ?」

 

 

 「反省はしてるんで……、その、少し手伝って貰えません?」

 

 

 「駄・目・で・す。自業自得です」

 

 

 

そう言われてしまうと知っていたのだろう。

彼は諦めきった嘆息を一つ溢し、立つ瀬がないかのように頭を軽く掻く。

 

 

 

 「相変わらず厳しいっすね……甘えが通用しない所なんて昔とちっとも変わらない」

 

 

 「昔って、それは祐一さんと初めて逢った頃……ほんのちょっとの話じゃないですか」

 

 

 

半分からかい気味に投げかけられた言葉に思うところがあったのか、

佐祐理は少し頬を赤くして祐一に応じる。

魚が垂らした針に掛かったかの如く、少年は楽しそうに口を開いた。

 

 

 

 「例えほんのちょっとだったとしても、あれは中々忘れられませんよ。

  今でこそ四天王なんて呼ばれて、学園中の視線を一点に集めた上、

  誰から見てもお嬢様然とした佐祐理さんがですよ?

  小さい頃は厳しく真面目、尚且つそれでいてやんちゃだった、なんて

  知らない人が聞いたら絶対信じませんよ」

 

 

 「うー……」

 

 

 

それは小さな小さな思い出語り。

祐一という少年がその宿命に出会うよりも過去の話。

祐一という少年がその運命に抗うよりも昔のこと。

祐一という少年が成し遂げた、小さな小さな“出逢い”という名の奇跡。

 

 

 

 「ゆ、祐一さんのそういう所だって、昔と変わらないですよっ。

  “悪戯っ子の祐一くん”そのまんまじゃないですか!」

 

 

 

せめてもの反撃と佐祐理も過去の話を持ち出す。

きょとんとして佐祐理の言葉を聞いた祐一は、やや間を空けた後吹き出した。

 

 

 

 「ぷ、ふふ、あははははっ」

 

 

 「ふぇ?」

 

 

 「はははっ……あ、いや……別に悪気がある訳じゃなくてですね。

  佐祐理さんに“祐一くん”なんて呼ばれるの久し振りですから。

  ほら、今じゃあゆ位しかそう呼ばないでしょ? 

  ま、元々一度でも俺のことそう呼んでたのは

  あゆや佐祐理さん除くと、舞しか居ませんでしたけどね」

 

 

 

単純に言い表すなら、懐かしい。

無垢なまま他者を疑うことなく日々を過ごす子供時代が。

しがらみを知らないから、分別が付かない分何をするか分からなくて。

でも、子供であるからそれが許される。何より、楽しかった。

 

 

 

 「あの頃のことは……今も、いえ、これからも。絶対に忘れません。

  祐一さんが居てくれたから、祐一さんが助けてくれたから。

  今の佐祐理が、今の私が居るんです。

  これだけは、どれだけ感謝してもしきれません」

 

 

 「大袈裟ですよ。俺がやったことなんて大したことじゃ」

 

 

 

本心からの言葉を、しかし佐祐理は真剣な声音で否定した。

 

 

 

 「違います。私と一弥にとっては、大したことだったんですから。

  祐一さんには本当に感謝しています……それだけは覚えておいて下さいね」

 

 

 「昔似たようなこと一弥にも言われたことありますよ。

  ……ほんと、そっくりな姉弟ですね。佐祐理さんと一弥は」

 

 

 

苦笑以外の感情が浮かばず、祐一はその通りの姿を表に出す。

人指し指と親指を『銃』の形にして、佐祐理に向ける。

バァン、と冗談交じりに囁いて、佐祐理の笑みを誘う。

佐祐理も釣られるようにして同じように指を構え、バァンと囁く。

交わす微笑みは、記憶を共有しているからこそ。

二人にとっての思い出は、いくら時を経ていても色褪せない輝きか。

微笑みはやがて明確な声と変わり、祐一と佐祐理の表情に微笑み以上のものが宿る。

 

 

 

 「祐一さんと一弥だって随分似てますよ?

  本当に血が繫がってるんじゃないかな、って知らない人なら勘違いする位」

 

 

 「……む。互いの名誉のため、如何似ているかと訊ねるのはやめとこう。

  どっちにしても、俺はアイツの兄であることを止めるつもりなんてないっすけど」

 

 

 「なら、祐一さんは佐祐理の弟ってことにもなりますね」

 

 

 

佐祐理は愉快そうに言った。

本当の姉弟だったら相当困ってしまいますね〜、と小さく心の中で呟きながら。

 

 

 

 「あ、成程。確かにそうとも云える訳だ。つーことは俺は倉田祐一と。

  ふむふむ、佐祐理“姉さん”か。それもまた良し。

  いやしかしそうなると結果的に舞“姉さん”とも呼ぶ羽目になるような気がする。

  ……舞が姉だったら相当大変なんだろうなぁ、多分」

 

 

 

彼の感想に、佐祐理が何故か頬を赤く染めた。

祐一がその理由を問い質す。

問われた佐祐理はまずオタオタし、その後開き直ったように一息をついて、

 

 

 

 「倉田祐一よりも、相沢佐祐理の方が似合うと思いまして」

 

 

 

彼が勘違いをすることのないように、告げた。

何故か思ったのだ。今言わないと後悔すると。

勢いに乗じるつもりで更なる言葉を紡ぐ。

 

 

 

 「祐一さんが帰ってきたあの日に言ってくれたこと、忘れてませんから。

  “俺の嫁に合格”なんですよね? 祐一さん?」

 

 

 

あの時は動揺した。しない方が無理というものだ。

そう、動揺する程嬉しかった。小さい頃から、祐一以外の誰かを見たことがないから。

望んでいた言葉で、叶えたい夢で、現実にしたい未来で。

 

 

 

 「そんなこと、言いましたっけ?」

 

 

 「誤魔化さないで下さい、祐一さん。

  佐祐理は、私は……ずっと、そうして欲しいって思ってきたんですから」

 

 

 

逃げ場のない、問われると思っていなかった告白。

ムードもロマンも無い。ドレスもなければアクセサリーもない。

しかし、真摯な想いを。しかし、譲れない感情を。

言葉は揺れない。感情も揺らがない。表情に揺らぎはない。

ただ、胸に光る一枚の羽が……疼いた。

或いはそれが彼の迷いか。或いはそれが彼の惑いか。

揺らぎという名の疼きは、なぁなぁにして終わらせる回答の機会を失わせた。

向き合わなければならない現実が少しずつ顔を覗かせ始めたのか。

 

 

 

 「…………」

 

 

 

祐一は言葉を発さない、いや、発せない。

佐祐理を拒絶しているつもりはないから、席を立つことはしないけれど。

当の彼女も、その機微を何故か理解したから逃げ出すこともなく。

二人の視線が一瞬交わり、互いに目を伏せる。

缶の中身はいつの間にか空となっていて、そちらに逃げ場もなくて。

 

 

 


 

 

 

沈黙が雰囲気を支配し、どれだけの時間が経ったのだろう。

一分なのか、一時間なのか、それとも一日なのか。

ほんの僅かな時間だと理性は自覚しているのに、本能が否定する。

放置すればまさしく永遠を体験しかねない沈黙。

願いが叶う訳でもなく、望みが果たされる訳でもない擬似的にして無意味な永遠。

やがて、口が開いた。

 

 

 

 「何を、隠してるんですか?」

 

 

 

佐祐理が本当に訊きたかったこと。

解っている、彼には、何かが、ある。

正しく云うのなら、そんな気がするのだ。

明確な理由なんて言えない。

どうしても答えろというのなら女の勘とでも言っておく。

それだけ不確かな疑問だが、抱いた事実は変わらない。

 

 

 

 「……え?」

 

 

 

それは問いかけ。

 

 

 

 「祐一さんは、何を抱えているんですか?」

 

 

 

それは問い詰め。

 

 

 

 「祐一さんは、何故泣いているんですか?」

 

 

 

それは。優しくて、暖かくて、暴力的な……問い質し。

戸惑わぬ筈がない。知る筈がない。理解出来る筈もない。

 

 

――――何故、その言葉を紡げる?

 

 

気付かれた? 知られた?

狂乱に狂騒し狂暴に狂想し冷静に冷却し冷酷に冷然した挙句の今があることを?

いや、真逆。至る訳がない。隠してきたのだ。抱えてきたのだ。背負ってきたのだ。

心の中で泣き叫んできたのだ。表に出すことなく、ひっそりと。

 

掠れぬように気を遣い、囀らぬように気を遣い、震えることのないように舌が鳴る。

 

 

 

 「突然、何言ってるんですか? 佐祐理さん」

 

 

 

いつもの声が出た。いつものように取り繕った声が漏れた。

羽が疼くのを無視して、限りなく無表情に近い微笑みを零して。

しかし、佐祐理はそれを見抜く。迷わずに剣を振るう。

 

 

 

 「教えて下さい。祐一さんと一弥が何を黙っているのか。

  辛いことなら、誰にも言いません。佐祐理だけが、胸に仕舞いますから」

 

 

 

彼女は弟の名前も出した。自分達に明確な違和感を抱いている。

バレた訳じゃない。神器であることを知られてはいない。

知らないのに何故貫くのだこの剣は。

判りもしないのに何故解るのだこの人は。

 

 

 

――――そうさ、俺は泣いている。

 

――――そうさ、俺は抱えている。

 

――――そうさ、俺は隠している。

 

 

 

呼応するように疼いた羽が、今この時ばかりは苛ついた。

 

 

 

 「根拠でもあるんですか?」

 

 

 

もはや問うしかなかった。あれだけの仮面を費やしたのに、何故、と?

ぶっきらぼうに告げた音は、どことなく優しく響いて佐祐理の耳に伝わった。

彼女は頷く。根拠と言える程ではないけど、違和感を持ったのは本当だから。

 

 

 

 「あの時会った男の人です。

  祐一さん達、言ってましたよね? 『お久し振りです』って。

  あの時は騒ぎになりましたから、他の皆さんはなし崩しに終わりましたけど」

 

 

 

自分は忘れてない。と、瞳が語った。

あの時問いかけたのは他の誰でもない自分だから。

 

 

 

 「あの人は、誰ですか? どういったお知り合いなんですか?」

 

 

 

朋也との再会。尊敬する人との再会が、切欠。

ただそれだけで違和感を抱く? 何故?

 

 

 

 「祐一さんと一弥が皆の前からいなくなった後のお知り合いなのは分かります。

  だって、それまではずっと一緒だったんですから」

 

 

 

一弥は教えてくれなかった。今まで何処に居たのかと聞いても何も言わなかった。

だが、理解した。二人は自分達の知らぬ所で再会していたのだと。

でなければ祐一と一弥に共通の知り合いが現れる訳がない。同じ言葉を発する訳がない。

間違いなく、二人は何かを隠している。祐一は何かを抱えている、

彼に発した安堵の声音は、大きな何かを背負っているからこそだと想像できる。

 

 

 

 「言えない、ことですか?」

 

 

 

祐一も佐祐理も知らないことだが、

その言葉はかつてある少女がある少年に告げた言葉と同じ。

否、言葉に限らず雰囲気もその時と酷似していた。

少年はこう言っていた。

 

 

 

 『……でも、コレだけは話せない』

 

 

 

少女はこう応じた。

 

 

 

 『助けて欲しかったら、言って』

 

 

 

少年は、その言葉に僅かとはいえ救われた。

 

 

 

――――ならば、この二人は如何なる答えを出すのか?

 

――――同じ環境に置かれ、同じ言葉を紡いだ二人は。

 

 

 

彼は逡巡する。全てを含めた真実を告げるべきかと。

祐一は知っている、剣を振るうには覚悟がいることを。

剣は凶器。他者を傷つけるために存在する武器。

振るうことで傷つく者が現れるのは必然。

振るうからには、傷つける覚悟を得なければならない。

聡明な彼女ならば、その理を知っている筈。

佐祐理の言葉は剣となって祐一を斬りつけた。

彼の心は揺らぐ。言葉という凶器によって生まれた傷で。

 

佐祐理は気付いてしまった。祐一は苦しんでいる。

癒したい。助けたい。救いたい。

だから、振るった。言葉という剣を。

だから、傷つけた。祐一の心を。

相反する行為を、最愛の人に。

自らを非情と、傲慢と責める。

 

 

 

 『わたしは醜くて、残酷な女だ』

 

 

 

でも、言いたいのだ。

頼って、わたしの胸で泣いて、と。

苦しみを分かち合うから。辛い心を慰めるから。

貴方の痛みを、わたしが癒すから。

何も知らないままじゃ、きっと貴方を癒せないから。

それだけは判るから……お願い、答えて。

身勝手にして切実な願いを、身勝手に思う。

 

佐祐理はソファーから静かに立ち上がり、戸惑う祐一をそっと抱きしめる。

己のぬくもりを伝える。あなたのそばにいます、と。

佐祐理の言葉は紡がれなかったが、祐一の瞳に一滴の涙が伝った。

嬉しいのか悲しいのか切ないのか悔しいのか。

感情の答えは見えなくて、涙は真実で。

 

何故涙が伝ったのかは、本人にも解らなくて。

揺らがぬ筈の心に、罅が入った。

 

こんな簡単なことで崩れる鎧ではない筈。

こんな馬鹿なことで貫ける盾ではない筈。

 

こんなこんなこんなこんなこんなこんな――――――っ!

 

掻き毟りたくなるような戸惑いは、佐祐理の言葉がもたらした一つの結果。

彼女は何も言っていない。何も核心を抑えてはいない。

ただ自分がそうであるかのように誤解しただけ。

神器の存在はおろか、“彼女”のことすら知らないのだ。

何も知らぬ無知な少女が、ただ言葉を紡いだだけなのだ。

それを理解していたのに、何故少年は動揺したのか。

 

……いや、考えるだけ無駄だろう。答えは、きっと出ない。

感情は時として意思を超える。

そうしたいと願わなくても、時として心はそれを裏切るから。

裏切りの涙は裏切ったが故に、澄み切っていた。それが、残る真実。

 

抱き締めて、彼の涙が頬に触れて、佐祐理は己の直感と聡明さを呪った。

何の証拠もないまま、覚えた違和感を問うただけだった。

剣を振るったことは認める。だがそれは単なる好奇心に近い感情。

苦しみを顕すなんて思っていなかった。

 

『泣いている』の? と訊いたことが、いけないことだったの?

だって、仕方ないじゃないか。解ってしまったのだから。

彼のことが好きだから、解らない筈のことに気付いてしまっただけなのに。

――その直感が、恨めしかった。

 

『苦しんでいる』の? と気付いてしまったことが、いけないことだったの?

だって、泣いていたのだ。心が、泣いていたのだ。

泣くほど苦しい何かがあると、自分の頭が理解してしまったのだ。

彼のことが好きだから、手を差し伸べたかっただけなのに。

――その聡明さが、恨めしかった。

 

 

 

少年には、不可侵たる強固な壁が存在した。

何物も寄せ付けず、何者も許しはしない心の鎧。

しかし、強固であるがために『脆い』。

何物も寄せ付けぬから、何者かの侵入を許す。

硬い壁であればあるほど、その壁は容易に崩れる。

肯定を否定し否定を肯定する矛盾。

矛盾を拒絶し許容する矛盾。

 

その所為で何て事の無い揺らぎに……膝を突く。

“いつも”の鎧は“必然の例外”として意味を持たない。

いや、それもまた完全な答えではないのだろう。

 

問いかけたのが佐祐理という少女だったから、という見方もまたある。

祐一と佐祐理――ひいては彼を取り巻く少女達――は、

彼が宿命を抱えるよりも昔の繋がりを有するから。

祐一にとっての【最初の原初】だから。

己が背負う暗黒を知らぬ無垢な時間を共有していた人だからこそ。

脆くなる前の祐一を知る彼女だからこそ――――胸に響く。

 

声が震えた。

 

 

 

 「……が……いた」

 

 

 

抱きしめた佐祐理の耳にすら届かない程のか細い声。

祐一は小さく、本当に小さくもう一度紡ぐ。

催促されたからではなく、己に言い聞かせるかの如く。

 

 

 

 「……好きな人が、居た」

 

 

 

震え、怯え、それでももう涙は零れなかった。

佐祐理の耳にも音が響く。

「S・U・K・I・N・A・H・I・T・O」

彼に言って欲しい言葉。彼に言って欲しくない言葉。

 

 

 

 「……大好きな女の子が、居たんです」

 

 

 

どこか他人事のように祐一は呟き。

どこか他人事のように佐祐理は聴く。

しかし、どこにも行かせはしない……と、抱きしめる腕の力を強くした。

 

 

 

 「……愛した人が……愛してくれた人が、居たんです」

 

 

 

泡沫の夢のように。

けれど間違いなく存在した現実という過去。

『居た』という過去形。『既に存在しない』という……悲しい現実を、理解した。

理解すると同時、佐祐理は歪んだ喜びを得た。

 

もう、いない……もう、奪われない。

 

そして嫌悪した。己に。

黒くて醜悪で汚らわしい歓びに一瞬でも至ってしまった弱い自分に。

その悔しさに、佐祐理は涙した。もう出逢えない同胞を、悼んだ。

 

 

 

 「――――ごめんなさい」

 

 

 

複数の意味を込めて、彼女は謝罪の言葉を発した。

嬉しいと思って、ごめんなさい。

貴方だってこうしたいのに、自分が奪い取ってごめんなさい。

名前も姿も知らぬ女性へ、彼女は詫びた。

何より、辛いことを訊いて……ごめんなさい。

 

されるがまま震える祐一はあまりに弱々しくて。

神器の長であり、風を司る剣士は、あまりにも矮小だった。

泣きながらも歯を食いしばり、声に漏らさぬ幼児のように。

泣いていることには変わりないと、自分で気付いているのだろうか?

 

 

 

 「……祐一さん」

 

 

 

震える少年の体を慈しむために、囁いた。

自分が問いかけた答えにはなっていないのかもしれない。

でも、その答えは限りなく質問への返答。

嘘だとは少しも思わなかった。

祐一の放つ悲壮な言葉に、虚実は混じっていない。

何かがあると覚悟はしていた。だからこそ荒療治に踏み切ったのだから。

しかし、見通しが甘かったと反省する。

 

彼女は真実の破片を知ってしまった。

最愛の人が抱えるトラウマを知ってしまった。

嫉妬を覚えて、悲しみを得てしまった。

彼女に何が出来るのだろう? 何をしてあげられるのだろう?

 

この人に救われた。救われたからこそ、傍に居たかった。

だが、甘かった。彼は弱くて、強いから。優しくて、冷たいから。

代わりにはなれないかもしれない。いや、代わりになんてなりたくはない。

貴方に、愛されたいから。

 

 

 

 「祐一さん、大好きです。私は、貴方が、大好きです」

 

 

 

彼はどこか壊れている。

壊れて、直して、ツギハギを繕い、傷を誤魔化しているだけなのだ。

故に、きっと、いつか、いなくなる。幼い頃のように。

そうはさせない。させる訳にはいかない。

縛り付ける。束縛する。拘束する。決して揺らがぬ愛情の鎖で。

 

どんな手段を使ってでも、逝かせる訳にはいかない。

佐祐理は、彼が永遠に呑まれる姿を幻視してしまったから。

何も知らぬ彼女は、祐一の中に永遠を幻視した。

 

 

――――覚えたのは、恐怖。

 

――――感じたのは、畏怖。

 

 

少女は、抱き締める。抱き締め続ける。

それ以外に何が出来る? 何も知らないわたし如きに。

 

少女の絶え間ないぬくもりが、少年の体を暖め続ける。

少年の心は傷ついて、傷ついて穢れて血を吸って。

全てを伝えてはいないけれど、その傷の深さだけは察し余る。

癒せるのなら癒したい。包み込めるのなら包みたい。

 

 

――――彼の全てを、己のモノと出来るのなら。

――――例え何があったとしても、自分はそれを選ぶだろう。

 

 

泣けぬ涙は、少女の胸に。

叫べぬ声は、少女の心に。

優しく愛しく慈しみ愛しむ愛情の形。

一方的に提供するだけの愛情の押し売りは、泣きたくなる程甘かった。

 

 

 

 「――――大丈夫ですよ」

 

 

 

声がした。

発した声は、少女のそれではない。

 

 

 

 「――――大丈夫ですよ、佐祐理さん」

 

 

 

少年が、告げた。

発した声は、“いつも”の音と変わらず。

少女のぬくもりをゆっくりと離す。

浮かべていた戸惑いを、外に漏らしていた不安を消して。

 

 

 

 「取り乱しちまって、すいませんでした」

 

 

 「ふぇ? あ……い、いいえ。佐祐理の方こそ……」

 

 

 

祐一は、静かに微笑んだ。佐祐理を安心させるために。

 

 

 

 『大丈夫ですよ』

 

 

 

その言葉は透明な音となって、空気に波紋する。

 

気付く。

その微笑みは、平時を渡り歩くために用意された仮面である、と。

自分の手は未だ彼の腕に触れているのに、体はそのぬくもりを伝えてこない。

 

悟る。

『ゆっくりと離した』その行為が“拒絶”であるのだ、と。

本人に自覚は無いのだろう。本気で自分を心配させまいとした行動なのだろう。

だからこそ、あまりにも、哀しくて。

 

察する。

彼の傷が深いことを。

癒すためには、今の自分ではまだ足りないのだ、と。

 

 

 

 「ふぅ、こんなシリアスにするつもりはなかったんですけどね〜……。

  本当にすいませんでした佐祐理さん、くだらないことをベラベラと。

  気分悪くなるでしょうし、今の話はオフレコってことで。

  あ〜……いや、そうだな、いっそ忘れちゃって下さい」

 

 

 「――――っ」

 

 

 

佐祐理は、悔しさを拭えなかった。

優しい拒絶なら構わなかった。

まだ彼の隣に立てないというなら、努力すればいいだけのことだったから。

だけど、その言葉は――――自分が無力である、と言われているようで。

そう。単純に云うならば……悲しかった。

 

 

 

 「うわ、もうこんな時間じゃないですか。マジですいません。

  そろそろ寝ないと佐祐理さんの美肌に悪影響出かねないな。送りますよ、上まで」

 

 

 

ロビーに置かれた時計の針が、更なる深夜を指し示す。

祐一はそのことに恐縮しながら、ソファーから立ち上がる。

自然と離れた佐祐理の手が、彼らの現実を代弁する。

改めて祐一はその手を差し出し、エスコートの役目を果たそうとする。

深い哀しみを抱きながら、その手を取って。佐祐理は微笑んだ。

 

 

 

 「あはは〜、送り狼になっちゃ駄目ですよ」

 

 

 「たはは、俺ってば信用無いな〜。これでも結構紳士的だと思ってたんですけど」

 

 

 

交わす会話はいつもと変わらない。

変わらなさ過ぎて、違和感を覚える程に。

 

 

 

夜は静かに更けていく。

離れた二つの人影は、やがて立ち去って。

 

夜は静かに更けていく。

ソファーの足元に転がる二つの缶は、放置されたまま。

 

夜は静かに更けていく。

琥珀に埋もれた白き羽は、いつもと変わらず其処に在る。





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