Eternal Snow

118.5/宵闇は過ぎ、夜は眠り逝く

 

 

 

箱型の密室に宿るは沈黙。

掛けたい言葉はいくらでもあるのに。

僅かなGが、本来以上に強く感じて。

パネルを弄った祐一は、一言も佐祐理には告げない。

佐祐理とて、何も言えない。

仮面を纏った祐一に、何を言えばいいのか。

忘れろと言われた自分が、何を言えるのか。

互いにとって、苦痛にしかならない密室。

小さな振動音が、ただ流れる。

 

 

 

 「さっきのことは……誰にも、言わないで下さい」

 

 

 

祐一が呟き、佐祐理の拍動が揺さ振られる。

 

 

 

――――言われるまでもない。何故わざわざそんなことを訊くの?

 

 

 

そう言いそうになった。言葉を漏らす直前、辛うじて呑み込んだ。

違う、そうじゃない。彼は……自分を信頼していないのだ。

“信用”はしていても、“信頼”はしていない。だから、言ったのだ。

叫んでしまいそうになった。耐えられなくて、涙が流れた。

 

祐一はその涙を見逃さない。いや、見逃せる筈がない。

零れた涙は自分の所為で、泣かせた責任は自分にしかない。

 

 

 

 「……すいません、佐祐理さんを傷つけたい訳じゃないのに。

  ――――何やってんだよ、俺はっ」

 

 

 

エレベーターの扉に拳を押し付け、己を責める。

責めるのは当然だ、彼女に何の咎があるのか。

悪いのは俺だ。彼女は、俺を案じてくれているのに。

その手を払っているのは……他でもない俺。

 

 

 

 「駄目ですよ。……手が、傷ついちゃいます」

 

 

 

佐祐理が傍に寄ってきて、打ち付けた拳を自らの手に包む。

その優しさが傷つけぬように、その哀しみが拡がらぬように。

 

信頼されていないのは、自分が未熟だからだ。

この人を癒しきれない、自分の弱さだ。

だから、せめて傷付かないで。わたしのために、苦しまないで。

 

――――貴方は。何も。悪くないから。

 

 

 

 「佐祐理のことなら、心配しないで下さい。

  祐一さんが辛い思いをすることなんて、無いんですよ」

 

 

 

祐一は思う。何故こんな人が居るのか、と。

何故こんな人が俺なんかの傍に居てくれるのか、と。

傷つけたのは俺で、振り払ったのは俺なのに。

悪いのは俺で。全ては俺の所為なのに。

申し訳なくて、有難過ぎて、悔しい位に、幸せで。

 

 

 

 「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。

  佐祐理さんのことを嫌いな訳じゃないんです。

  貴方に縋りついた方が幸せだって、解ってるんです」

 

 

 

その手を掴みたい。掴みたいのに……。

そう思っているのに、手を伸ばせない。それは、許されない。

俺には、やらなければならないことがあるから。

 

 

 

 「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。

  貴方を哀しませて、ごめんなさい。

  佐祐理さんのことが嫌いな訳じゃないんです。

  貴方に縋り付いた方が幸せだって――――救われるって、解ってるのに」

 

 

 

少年は再び慟哭の渦をその身に取り巻く。

そうしなければ赦されないと思い込んでいるのか。

泣かずに哭く。傷つけぬように痛めつける。

 

佐祐理は、その大きくて小さな背中を抱き締めた。

先程与えたぬくもりを、忘れないで欲しいから。

 

 

 

 「……っ」

 

 

 

触れた感触に、戸惑う。

戸惑う必要も、構える必要もないのに。

 

 

 

 「――何も言わないで」

 

 

 

少女が呟く。

小さな望みを、心に秘めて。

 

何も言わなくていい。何も返してくれなくていい。

ただ……こうすることを、赦して。

背中越しに少年の鼓動を感じる。

此処に生きている彼を、実感する。

居てくれるなら、それでいい。

 

長くて短いその一瞬を経て、密室が動きを停める。

幻想から現実に帰った二人が、同時に開いた扉を注視する。

扉を抜ければ――この時間は終わる。

祐一は『仮面』を被り、佐祐理は『笑顔』を纏う。

祐一と佐祐理が同時に動き、互いの熱は再び孤独に戻る。

 

 

 


 

 

 

 「祐一さん、お部屋まで送って頂いてありがとうございました」

 

 

 「いえいえ。それでは佐祐理さん、お休みなさい」

 

 

 「おやすみなさい」

 

 

 

佐祐理の言葉を背に受け、祐一の姿が消える。

彼の消えた先を見やって、呟く。

 

 

 

 「――祐一さん。佐祐理は……嫌な女ですね、本当に。

  今の佐祐理じゃ、祐一さんの隣に立つことなんて

  無理だって解ってるのに。その資格が無いって解ってるのに。

  それでも、縋り付いて。奪い取りたいだなんて、思って。

  ねぇ、祐一さん? ……こんな私でも、いいですか?

  いつか、いつか貴方の傷を癒すことが出来ますか?

  貴方の傍に置いてくれますか? 祐一……さ、ん…………」

 

 

 

言葉に被せかかるように、床に小さな染みが落ちる。

瞳が作る宝石の輝き。切なくて、止まない雨。

傘を差してくれるあの人は、此処に……居ない。

 

 

 


 

 

 

密室に戻った祐一は、己の不甲斐無さを嘆く。

動く密室は、疼いた鼓動を誤魔化してはくれない。

ただ、呪う。彼女を傷つけた己を、呪う。

 

 

 

 「――佐祐理さん。俺って……嫌な男ですね、本当に。

  今の俺がどんだけ最低かなんて、言うまでもないっすよね?

  でも、いつか……きっと、話します。

  話せる時が来たら、きっと、言いますから。

  軽蔑されるかもしれませんね、侮辱するかもしれませんね。

  ……はは、そうなったら立ち直れないかもしれないな。

  身勝手だよなぁ、俺……。最、悪、だよなぁ……」

 

 

 

哀しくて、泣いた。

やっと初めて、ちゃんと、泣いた。

神奈を忘れていないのに、佐祐理に嫌われるのも嫌だなんて。

嘲笑いたくなるくらい、情けない。

 

 

 

 「でも、甘んじるしかない。それが……俺の、罪、だから。

  我侭言ってごめんなさい、傷つけて、ごめんなさい。

  ったく、っとに、俺は……。馬鹿だよ――くそ……、神奈ぁっ……」

 

 

 

仮面が、剥がれる。

どうしようもない悔しさに、祐一は泣いた。

仮面の奥の瞳は蒼き涙に濡れて。

過去の記憶は蒼き涙に濡れて。

 

夜は静かに更けていく。

動きを停めた密室と、照らす灯りが静かに佇む。

 

夜は静かに更けていく。

ひび割れた仮面が、それでも彼を包み込む。





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